「エッケ・ホモ」はラテン語で「この人を見よ」の意味らしいです。
もともとは新約聖書の一節で、キリストを指した言葉らしいですが、
今回は、近代~現代の人間像と引っ掛けた意味あいになってました。
詳細はこちらの
リリースをば。(
鳳蘭風オルラン写真もあり。)
個展的なものより、
こういう、あるテーマに沿って、時代やジャンルを超えた作品が集まる方が、
タイトル時点からワクワクしますねー!
まずは「1.日常の悲惨」から。
戦争体験が反映された、過度な物語性をはらまない物質的な「生や死」。
北山善夫さんの「生きること死ぬること」とか、淡々とえぐってくるような作品が多かったかな。
夥しい人間が重なり合う。
男女が性的に重なり合ったりもしてるのだけど、
白い、石灰化したような人間は死のイメージの方が強い。
ミロスワフ・バウカの拘束具のインスタレーションや、
「死なないための葬送」で見た荒川修作のカッコいい棺の作品もありました。
何年越しかで改めて見ても、圧倒的な存在感。
見るだけで、その質量がすべて圧し掛かってきそうな、支配力すらある。
ここに何故かウォーホルのマリリンがあったりした。
「2.肉体のリアル」では、
理想化された「モデル」やステレオタイプ化されたイメージ上の身体ではなくて、
生身の私たちが持つ、血肉の通った身体を中心に。
もちろんグロテスクな場合だってある。
フランシス・ベーコンは相変わらずの歪み。
物質としての「肉」のすごみを感じる。
マーク・クインの女性像は単に綺麗だなと思ってたら、素材が動物の血でした…。
なるほどそれでタイトルが「美女と野獣」…。
ローリー・トビー・エディソンは肥満女性のヌードポートレート。
それがすごく綺麗というか、
生命として、そこに実在している、という実感を感じられる。
性的な眼差しから離れて、単に欲望や理想として消費されない、
なんていうか…すごく、
「肉体!」なんです。(語彙のなさ)
小谷元彦さんのTerminal Impactは映像作品。
義足のアーティスト
片山真理さんをモチーフにした作品。
手や足のパーツが機械の先端に取り付けられて、
時に人間のようにしなやかに、時にありえない可動域やスピードで乱暴に動き続けてる中、
片山さんが衣装やかつらを取り替えつつ、歩いたり、座ったり。
義手や義足は、かつらのようなもので、足らないからつけるエクステンションなのだけど。
そのパーツは、無機物なのに有機物で。
手足の形をしたパーツが暴れまわっているといたたまれなくなってくるし、
片山さんの動きにどぎまぎしたりしてしまう。
拡張された身体の、肉体と機体の間のズレとか痛みとか想像してしまう。
最後はブラックアウトでパーツを動かす機械音だけになるのに、
ずっと映像を見続けてきたから、手足が動く光景が浮かぶ。
無機的な音に有機的な体のイメージが引っ付いてくる。
で、学生時代から気になっていたオルラン。
観たのは初めて…ですか…?(知らん)
アブラモビッチとか、「痛い」パフォーマンスアートをする人は多くいると思うけど、
オルランは整形を作品にしてる。
タイトルは「これが身体…、これが私のソフトウェア…」
うん、言いたいことはわかる気がする。
オルランのHPを見ると、
かつてシャーマンがメイク法で色々な女性像になり切ったように、
整形+メイクでなり切りしてる作品もあるけど(おでこに何かが埋め込まれていて怖い)、
今回展示されていたのは、整形の手術過程と直前直後の写真。
当然ながら手術中の写真はなかなかにグロテスクで、
術後はパンパンに腫れ上がった顔で笑顔…。
理想の身体に生身の身体が近づくためのリアルな手法を浮き彫りにしてる。
「3.不在の肖像」。
オノデラユキさんの「古着のポートレート」は、
ボルタンスキーの作品の中からピックアップした古着とのこと。
ボルタンスキーの作品内で大量虐殺のイメージで積み重ねられた中から、
1着1着服を広げて、しかも、それが人が袖を通してるかのようにふんわりとしていて。
その作業は、まさに、無残な夥しい死の中から、それぞれの「個の人生」に引き戻すよう。
石内都さん(今回は傷跡シリーズが出てました)の「ひろしま」を思い出しつつ、
でも、時が止まったその場所に連れ戻されるような鮮烈な感覚というよりか、
もっとふわりと一人一人が立ち上がるようなイメージだった。
内藤礼さんの「死者のための枕」(内藤さんといえば、豊島に行きたい!)もあった。
枕にしろ服にしろ人と接する布って特別感ありますよね。
ずっと人の肌に接しているわけだし、全身をまるごと覆うことだってできるわけだし。
それこそキリストの聖骸布のようなものもあるくらいだけど、
たとえそこに姿が転写されずとも、
その人の「何か」が宿る、第二の皮膚のようなイメージがあるような気がします。
古着屋ってメジャーですけど、そう考えると、たかが古着、されど古着だなと思いました。
ブライス・ボーネンの顔を色んな方向に運動させて撮ったブレ写真、
北野謙さんの多数の他者を重ね合わせたモンタージュのような写真は対の様な感じ。
田口和奈さんの「ほとんど、唯一とよべる」の微笑む女性は、
どこにでもいそうで実はどこにもいないのかもしれない、輪郭の薄れかかった面影。
フィオナ・タンの「プロヴナンス」は来歴という意味のようで、
5つの小さい液晶モニターにそれぞれ一人をクローズアップしたモノクロ映像が流れてた。
それぞれの居住環境だったり、その人を連想させる小物がイメージとして挟まれたり。
ちょっとした映画みたいに、パーソナリティを説明する。
で、出口のきわっきわ、本当にきわっきわのところにあった最後の作品が、
島袋道浩さんの阪神大震災後のスナップショット。
「人間性回復のチャンス」。
奇しくも日付が3.11という。
全壊した家の隣に大きく掲げられた「人間性回復のチャンス」の看板。
新興宗教並みにストレート。
でも、スナップショットの中には人影はなく、
勧誘する人もその模範となる人もいない。
「この人を見よ」の明確な答えはないまま放り出されます。
ほぼ国立国際美術館のコレクションで賄っているので、
これまで見た作品が多いのもあってか、正直インパクトに欠けたし、
ちょっとこじつけじゃ、と思う部分もあったけど、
わさわさせずに静かに観ながら考えられるよい展覧会でした。
3/21までです。
ちなみに、国立国際美術館の次回展示は、
森村泰昌展。
こってこてやでー! 森村さんは、シンディ・シャーマンとの類似が指摘されたり、
何ならシャーマン作品のなり切りもしてますが、
シャーマンは女性に向けられる欲望のまなざしを意識した上で、
自らを消してステレオタイプな女性のイメージや物語に滑り込ませるのに対して、
(この辺り、個人的にはものすごく椎名林檎を連想します)
森村さんはどの素材であっても、
「わて、森村やでー!」って感じで、エゴが最前面に出る。
それがどこまで狙ってか、狙ってなくてか、結構えぐくて、ぐろい。
今度も楽しみですねー。
しかし、オルランみたいに整形してまで何かに成りきったり、
(オルランの場合は整形そのものが本編な気がするけど)、
シャーマンや森村さん筆頭にコスプレや成りきりをするアーティストがわんさといる中、
いまや誰もがコスプレできる時代になって、そこに特別感はないですよね。
しかも、自撮りのスキルやアプリやメイクを駆使して、
SNSで「盛った」写真とか「奇跡の一枚」をアップして、
アーティストでない人すら、最終到達地点が写真や動画のメディアになっていて。
(しかもそれを不特定多数に発信できる術をも持っている)
そこにはオルラン的な身体の痛みを伴う変身はありえなくて、
もっとライトな手法での変身が叶ってるんですよね。
でも、ざわちんを見てると、マスクで自分のアイデンティティを隠しつつ、メイクで成りきりをやっていて、
マスクをはずしてざわちん本人として活動したら叩かれるとか、
なかなか気持ちの悪い現象になってる。
アイデンティティって、そして、「成り切り」って、「変身」ってなんだろう。
今だからこそ考えるべきな気がしつつ、
その現状に切り込める同時代のアートと出会いたいと思いました。
***
ちなみに、この日は念願の
イルベッカフィーコに行きました。
美術館から徒歩5分くらい?
前菜のボリュームに目をひん剥きつつ、
もうお腹いっぱい…もう食べれない…と思いながら、ぺろりと完食しました。
今回写真撮れなかったので、今度もう一回行ってちゃんとご紹介しますー。
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